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善福寺(西八代郡市川三郷町)

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写真: 善福寺(西八代郡市川三郷町)

写真: 善福寺(西八代郡市川三郷町) 写真: 入明寺(甲府市住吉)

mixi記事コピペ――2014年05月31日 10:07
14.05.29.
宗派、高野山真言宗

寺に関する情報が乏しい。
過去に火事にあってすべて焼失。一条信竜の位牌も焼失、よって信竜の法名も不明。


●一条信龍──
信虎8男。甲斐国市川郷上野城主。
甲斐源氏 武田信義次男 忠頼を祖とする一条家の名跡を継承。
通称 右衛門大夫。上野介、信隆とも。信竜と書記されることの方が多い。
(某ははじめ信龍で認識したため、竜に抵抗があるww)
初陣は天文9(1540)年の佐久攻略とされる。
親族衆として騎馬200騎(100騎とも)、相備え組衆は依跡10騎、大津10騎。
本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当していた。信玄の遺言による勝頼の後見人。
合戦時は主に後衛を担当していたためか武名は伝わっていないが、甲陽軍鑑には、山県昌景、馬場信春など重鎮7人の武将のうちに数えられている。なにより、武田二十四将。
※甲陽軍鑑で武勇が絶賛されているが、武田氏の戦に関する1級史料に彼はまったく登場しない。
晴信の出陣にはたいてい付き従ったとあるが、詳細はいずれも不明。
天正3(1575)年、長篠合戦において、佐久間勢に攻撃を加えて二重の柵を破るまでの攻勢を見せたというが多くが戦死。また、敗走する友軍の中で馬場信春勢と戦場に留まり、主君勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却している(甲陽軍鑑)。
後、武田信堯とともに駿府城代を任じられる。
天正10(1582)年、甲州征伐。
3月2日、駿河を撤退して上野城へ戻るが、同方面より侵攻した徳川家康(穴山信君の誘導)の三河勢に上野城を包囲され、3月10日、三河勢1万に対し手勢3百で突撃して信就と共に討死した。
信長公記では天正10(1582)年3月7日、武田信廉と共に斬首されたとある(甲斐善光寺)。誅された者を記すところで筆頭に名がある。逍遥軒はずいぶん後方にある。
が、これは兄の武田信基(上野介信友)の誤りと考察されている。
また、信龍と信就は甲州征伐では別行動を取っており、斬首されたのは信就の誤りとも説かれている。
ついでに滅亡直前の病死説もある。死没が不詳、出生も不詳。

一条氏子孫は、己らが子孫であることを隠して生きなければならなかったという。文書・史料などは処分している。

信龍は伊達者と称されたと甲陽軍鑑にあるが、これは伊達政宗に因んで生まれた言葉。編纂された江戸期に書かれたものだけはある。伊達者であったと武田家遺臣が語るならば、粋であったとか、洒落た人だったとか、男前だったとか──傾き者だったとか。


一条右衛門大夫信竜公旧蹟。
(踏切近く)
同供養碑。
一条右衛門太夫信就戦跡。
老狐「おまん女」の伝説。


甲斐国巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU

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