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正安寺(佐久市)

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写真: 正安寺(佐久市)

写真: 正安寺(佐久市) 写真: 正安寺(佐久市)

この塔群のどれかが小山田備中の墓、どれかが内山美作守の墓。



mixi記事コピペ――2015年02月28日 23:13
※小山田備中──
●小山田虎満──
実名は虎満で確定している。甲陽軍鑑ほか小山田昌辰表記は多い。
出家名は玄怡(げんい)。
文書上では上原伊賀守、小山田備中守(初代備中守)。
甲斐武田氏譜代家老衆。
小山田備中守昌成は実子。

武田家中においては譜代家老衆として同位の、郡内領主小山田氏(信有・信茂など)がいるが、虎満は別系統の一族とされる。現 甲府市石田の地に所領があったため小山田姓を名乗り(子細不明)、「石田の小山田」と通称されたという(拠って石田小山田氏)。もとは上原伊賀守を名乗っており、70騎を指揮していたという(甲陽軍鑑)。

虎満の初見は「高白斎記」。天文15(1546)年7月条で、上原伊賀守が武田晴信より内山城代に任命され、西上野口へ通じる佐久郡を確保とある。
同書、天文20年3月29日条には、内山城代は前城主貞清に交代し、虎満は甲府へ帰還とある。
同9月20日条、貞清更迭、再び内山城代となっている。この間に石田小山田氏を継承し小山田備中守を称したとされる。
天文22(1553)年1月、信濃守護小笠原氏・村上氏の連携に対し、晴信は虎満への書状で、村上義清本拠である葛尾城攻めの出陣を秘匿するため、戸石城修築の虚報を流していることを伝えている。
※このころ信濃国衆 真田幸綱との取次も務めている。軍事行動もともに行っている。

天文23(1554)年7月、村上義清監視のため、飯富虎昌とともに再び内山城入りしている。
永禄元(1558)年、病により重篤となっていたが回復したとされる。真下家所蔵文書年未詳武田晴信書状で、山本勘助が「当家宿老小山田」の見舞いを命じられており、これは虎満を指している可能性が考えられている。
永禄7(1564)年頃出家し、玄怡を名乗る。
永禄10(1567)年2月、嫡男 昌成(菅右衛門尉)への知行・同心衆の譲与が認められており、このころ隠居したと考えられる。
同年8月、生島足島神社へ奉納された起請文に虎満の名が見られず、以降は備中守昌成の名が記される。これより虎満は、「古備中」と呼ばれたと考察される。

虎満の名が最後に見られるのは武田家朱印状「柏木文書」で、元亀3(1572)年。
没年は高野山蓮華定院過去帳に天正7(1579)年10月12日と記されている。死去まで内山城代であったことも確認されている。
※甲陽軍鑑では、小山田備中守が築城した城は落城することがなく、信玄は城を築いては虎満を入城させるという恒例を行っていたという逸話を記している。


●小山田昌成──
おやまだまさゆき。
生年不詳〜天正10(1582)年。
1級史料では昌成。昌行、昌重とする史料もある。
父は小山田備中守虎満。初代備中守・上原伊賀守・法名 玄怡。
同時期、石田小山田氏には六左衛門尉昌盛がおり、昌成の嫡子あるいは弟であったと考えられている。

永禄9(1566)年、信濃佐久郡に知行を与えられているのが昌成の文書初見。しかしこの時の宛名は「藤四郎」。
同年10月、父虎満とともに上野松井田城の防衛を命じられている。この文書では「菅右衛門尉」。
昌成の備中守襲名は、父虎満の死去した天正7(1579)年以降と考えられている。
昌成の活動が見られる文書は少ないが、天正3年からは四点の龍朱印状の奉者として確認できる。

天正10(1582)年3月、織田・徳川連合軍が信濃侵攻を開始。昌成は信濃国伊那郡高遠城主 仁科盛信3000の相備衆として織田信忠率いる5万の大軍と対した。
籠城戦の末、盛信、弟 小山田大学助らとともに討ち死(高遠城合戦)。
昌成の兄弟、子らについては明るくないが、子孫は真田氏に仕え、次席家老として明治に至っている。

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