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原立寺 長沼墓所(長野市津野)

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Photos: 原立寺 長沼墓所(長野市津野)

Photos: 原立寺(長野市妻科町) Photos: 霊山寺(長野市箱清水)

原虎胤墓碑。H22年建立。
(原美濃守・鬼美濃)



mixi記事コピペ――2015年10月07日 18:08

15.09.28.
長沼墓所。

15.09.29.
栄久山 原立寺(げんりゅうじ)
宗派、日蓮宗
本尊、釈迦牟尼佛
開基、原美濃守虎胤
開山、安全院日隠上人
創建、天文3(1534)年
はじめは真言宗で弘法寺(ぐほうじ)と言った。

(HP……)弘法寺の住職・栄久法印(法印とは僧侶の呼び名のひとつ)と法論の問答(お互いの教えである真言宗と法華経のこと)を戦わせ、原美濃守が法華の教えを以って真言の教えを負かしました。栄久法印は問答には負けるが、法華経の教えと原美濃守の法華経信仰に感動し、自ら法華の僧「安全院日隠」になり、弘法寺を法華の寺に改宗しました。改宗年次は定かではなく、永禄年間と記されているので、永禄4年頃と思われます。開山より480年位、改宗より450年位となります。
山号は栄久法印の栄久から栄久山とし、寺号は原美濃守が法華の寺として創立したとの意味で原が立てた寺、原立寺としました。住職が腹をいつも立てている「腹立て寺」ではありません。(HP←)
http://genryuji.jp/facility.html
(0262327558)

※原氏血脈について、コメント欄最下記→
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1937923574&owner_id=32815602
写真しか上がってこないフザケたシステムになっている。その場合は→「虎ノ門1・2丁目」→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=32815602&album_id=500000083421223

※原美濃守子孫→ 洞泉寺→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=32815602&album_id=500000087204593
※原氏関係→本立寺→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=32815602&album_id=500000086746230


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing


●原虎胤──
甲斐武田氏の武将。足軽大将。原信知と記す史料もある。虎胤の虎の字は信虎の偏諱とも。官途名はのちに渾名となる美濃守。法号は清岩。幼名不明。
原美濃守。鬼美濃。夜叉美濃。
武田五名臣(甲陽五名臣)。攻城戦の巧者。

明応6(1497)年生まれ。父は原友胤(原能登守友胤・胤信)。下総国千葉勝胤家臣。千葉氏庶流。重臣。
永正14(1517)年、小弓合戦にて足利義明・真里谷武田氏に敗北。居城 小弓城を奪われ父 原友胤とともに甲斐へ落ち延びた。
武田信直(のちの信虎)に仕官、甲斐源氏武田氏の家臣となる。新参の余所者にも関わらず、足軽大将、そして3000貫で迎えられている。
友胤と虎胤は信虎の下で武功を挙げ続け、その存在を盤石なものとしていく。

大永元(1521)年、飯田河原戦では今川軍重臣 福島正成(くしままさしげ)を討ち取る。こののちに受領名 美濃守を名乗る。
天文10(1541)年、武田晴信が父 信虎を追放し家督襲名。この頃には「鬼美濃」と呼ばれ恐れられるようになっていた。
※信虎に登用された新参の家臣だった虎胤は、板垣信方ら国人衆とちがい信虎との関係は良好だったようだ。信濃にいた虎胤は、信虎追放の報せに急ぎ甲斐へ帰国し、板垣信方、甘利虎泰らに猛抗議したと言う。

同年、足軽大将となり3000貫を領す。騎馬30騎、徒100名を率い、武田軍の中核を担った。
※父 友胤の没年が不明。

天文20(1551)年10月、信濃小笠原氏家臣 平瀬八左衛門の平瀬城を4日で攻略する。本拠である林城を捨ててここへ落ち延びていた小笠原長時は村上氏の下へ逃亡、平瀬八左衛門は自刃。虎胤は城代を命じられた。
※虎胤は城攻めに特に長けており、落城後は修理がいらないと言われるほどだった。

天文22年(1553年)12月、日蓮宗(法華宗)と浄土宗間の勢力抗争の際、法華宗の立場で法論に加担した事を咎められ、国外追放とされた。
※“甲州法度之次第”「宗派に偏る事を禁ず」。

虎胤は小田原北条氏へ仕官する。北条氏康は「渡辺綱に勝る」と大歓迎した。
天文23(1554)年2月、今川との富士郡・梶間(賀島)での合戦に参陣。今川勝利。
※今川と同盟中の武田軍には小山田信茂隊がいた。
小田原軍と対峙するなか、信茂は兜の立ち物から原美濃守を見つけると、「美濃守の敵前での馬の乗り様をよく見よ」と配下らに告げたという。
睨み合いが続く中、武田軍より近藤某が原美濃守へ馬を寄せて斬りかかった。原美濃守は峰打ちでこれを落馬させた。北条方が首を取ろうとしたとき、その者は甲州での顔見知り故、許してやってくれぬかと申し出、放免し引き上げさせた。
「鬼美濃ながら、鬼の眼にも涙」と評判を馳せた。
※戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたと言う逸話も残っている。

同年同月、三国同盟締結。これを機会に恩赦が与えられ、帰参が許された。
※会談ののちに晴信から帰参を求める書状が届いたためとの説もある。
※北条氏康は甲斐国帰参を許した。惜別の念を表している。
※小田原北条家には4年間仕えていたという説もある。

永禄2(1559)年、晴信出家に続く。清岩と号した。
※真田幸隆、山本勘助、今福浄閑斎ら。

永禄4(1561)年6月、信濃国割ヶ嶽城攻略で負傷。9月の第4次川中島合戦には参陣できず、以後は第一線を退いた。
※未回復と老齢を理由に留守居役を願い出た説。

永禄7(1564)年1月28日、甲斐の自宅にて病没(68)。
※死後、美濃守の受領名は馬場信春が引き継いだ。信玄より「(武名の高かった)鬼美濃に肖るべし」と。
※現在も続く原美濃守の後裔には、信玄から賜ったと伝えられる軍配が家宝として400年以上にわたり受け継がれているとのこと。

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Comments (2)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    2015年10月07日 18:09
    長沼墓所――
    原美濃守虎胤墓(H22年建立。虎胤の墓所は、“千曲之真砂”・“歴代古案”に「原立寺本尊の下に遺骨を納む」、「床下に石塔あり」といった記述があることから、長沼の地にお墓が存在したと考察されている。
    長沼墓所は原立寺発祥の地で、約50坪の敷地に整地30区画と小規模。原立寺の農地は約2800坪あったが、大戦後の昭和22(1947)年に全開放された。(HP参考)

    01-27-2018 13:17 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    19.10.12.台風19号襲来。21:00関東直撃。翌朝千曲川決壊、氾濫。こちらは一帯が水没してしまいましたIl||li (´;ω;`) il||li

    10-22-2019 12:49 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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