ヘルプ

蒼海城(前橋市)総社明神・宮鍋神社/上野国府

  • 509

写真: 蒼海城(前橋市)総社明神・宮鍋神社/上野国府

写真: 蒼海城(前橋市)総社明神・宮鍋神社/上野国府 写真: 蒼海城(前橋市)総社明神・宮鍋神社/上野国府

mixi記事コピペ――2016年03月24日 11:50
16.03.15.
築城年、永享元(1429)年
築城主、総社長尾氏
城主、総社長尾氏、諏訪氏
廃城年、慶長6(1601)年

城郭放浪記様コピーm(_ _)m――
永享元年(1429年)総社長尾氏によって築かれた。 上野守護代総社長尾氏は上野国府跡ともいわれる地に城郭を築いた。築城は長尾景行とも長尾忠房ともいわれる。
徳川家康が関東に入部すると、文禄元年(1592)諏訪頼忠が武蔵国奈良梨から蒼海城に入部するが、慶長6年信濃国高島へ移封となった。替わって秋元長朝が一万石で入封するが、長朝は惣社城を築いて移った為、廃城となった。
蒼海城は上野国国府一帯に築かれていたという。 総社神社には「蒼海城跡地図」という大きな看板が掲げられている。
蒼海城の遺構は殆ど失われているが、本丸の土塁がわずかに残されている。本丸の土塁は殿小路公民館から御霊神社との間にあり、道路に面して薮になっている部分である。 この辺りは道路が周囲の宅地や畑などより一段低くなっている所が多く、かつての堀跡の名残であろうか。――

余湖くんのHP様コピーm(_ _)m――
蒼海(おうみ)城は、元総社町の御霊神社や宮鍋神社の辺りにあった。この2つの神社の間辺りが本丸であったようである。
 これほどの城郭でありながら、遺構のほとんどは失われてしまっている。御霊神社にわずかに土塁らしきものが見られるほか、城のほとんどは湮滅状態である。そこで『城郭体系』の図を基にしたラフ図を掲示しておく。なお、東南側にある総社神社には、この城や上野国府に関する案内板が設置されている。
 南側の染屋川と北側の牛池沢城との間に、何重もの堀を廻らせるという複雑な形状をしていた。本丸周辺には沼があり、沼沢地に臨んだ要害である。ちなみに「蒼海」という名称は、この沼にちなんだものであると言われている。
 本丸と二ノ丸は方形の郭を重ねたような構造をしており、この形状から山崎一氏は「幻の上野国府を戦国城郭に編成したもの」という説を出している。
 蒼海城は、永享年間に、長尾景行によって築かれ、以後、総社長尾氏の本拠地となった。しかし、城としての使い勝手が悪かったのか、景行の子の忠房は、石倉城を築こうという計画を立てたほか、その後にこの地に入部することになる諏訪氏、秋元氏のいずれもこの城を利用しようとはしなかった。
 想像するに、縦横にめぐらされたこの堀は、環濠屋敷群を取り込むことによって成立したものであり、それぞれの堀の規模は小さく、防御力に富んだものではなかったのではなかろうか。だから秋元氏はこの城を利用せず、総社城を新たに築いたのではないかと思うのである。
 もう1つ想像されるのは、2つの川に挟まれた平城という位置取りは、洪水の被害を容易に受けてしまうのではないかということ。たびたび水害に見舞われるような城では、居城とするのに嫌気がさしてしまうのではないか。――

日本城郭大系より――
染谷川とその支流牛池沢との間に縦横の堀を配した城で、総社長尾氏の本拠である。この城の縦横列郭構造は、築城以前に既設の構えのあったことを暗示し、幻の上野国府を戦国城郭に編成したのがこの城ではあるまいか。上野国分寺、国分尼寺、山王廃寺跡、上野国総社などが付近に集中するこのあたりに国府があり、上野守護代であった長尾氏が国府跡を本拠とすることに無理があろうか。平将門が上野国府を襲った時の染谷川古戦場もここにある。
しかし旧地形に拘束された不合理な城は、景行の子忠房さえ放棄して石倉に築城し、諏訪氏も入場せず、秋元氏も植野に新城を築いたのである。石倉城(古)が利根川に崩落したのちの総社長尾氏はまた蒼海城に住み、関東管領上杉顕定は、総社の長尾忠景に兄景信の山内上杉家宰職を継がせた。それが文明8(1476)年、長尾景春(景信の子)の叛逆を招いたのである。文明18年10月、蕘恵がここに忠景の子顕忠を訪うている。忠景の孫顕方も上野守護代であったが、当時勃興してきた北条氏綱に通じた。大永4(1524)年頃のことであろう。そのためか、顕方の跡を継いだ顕景は、箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業(信業の弟)に挟撃されて苦しみ、越後の長尾為景に救いを求めたが、ついには長野氏に屈服したらしく、長野業政のはからいで総社の景房(憲景)が白井の城主を継いでいる。以降、総社長尾氏はまったく衰え、永禄9(1566)年、蒼海城も武田信玄に攻略される。
本丸は北に寄り、川には堰止めを設けた。氾濫は本丸西側に及んで沼状となり、蒼海の名を生んだ。――


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1hYcnOa-Dh-CZpWYn11kqD2XP3vk&usp=sharing



mixiアルバム「高島城(諏訪市立高島公園)」内コメントコピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000088056138&owner_id=32815602
※総社藩――
そうじゃ。
群馬県前橋市元総社町、もしくは総社町植野に存在した上野国の藩。

小田原征伐後、関東に入部した家康より1万石を与えられた。
文禄元(1592)年、2万7000石へ加増。
慶長6(1601)年、関ヶ原合戦における戦功から旧領諏訪(高島藩)へ移された。

同年9月、この地には譜代家臣 秋元長朝が1万石で入る。長朝は地元の領民などの助力を得、総社に新城築城と城下町建設を計画した。新田開発、用水路の開削事業、検地などに尽力し、藩の支配体制を早くから固めた。
寛永5(1628)年8月29日、長朝死去(83)。
寛永10(1633)年2月、泰朝は1万8000石で甲斐国谷村藩へ加増移封され、総社藩は廃藩。
この土地は高崎藩に預けられていた徳川忠長への小遣い料として安藤重長に与えられた。

安永5(1776)年、旧総社藩の百姓衆は名藩主だった長朝の徳を讃え、菩提寺である光巌寺の境内霊廟前に「力田遺愛碑」を建立した。

※秋元長朝――
はじめ庁鼻上杉氏に仕えた。
天正18(1590)年、小田原征伐。主君の上杉氏憲が小田原城に籠もったため、長朝もこれに従って後北条方に与し深谷城の守備にあたった。長朝は攻め寄せる前田利家と浅野長政を相手に奮戦して城を持ちこたえていたが、小田原城落城の報せに豊臣軍の猛攻を察知し、杉田因幡と謀り開城する。深谷を兵火から守った。
その後しばらくは隠棲していたが、文禄元(1592)年、井伊直政の推挙を受けて家康の家臣となり、直政配下として上野国惣社に所領を与えられた。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦直前、上杉景勝詰問の使者として会津に赴いている。戦後も家康の命で再び会津へ赴き、景勝に降伏を勧告、これを受け入れさせた。この功績により加増を受け、1万石の所領をもつ大名となった。
慶長9(1604)年、利根川から引水するという治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させている。
2013年12月15日 13:32

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。