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造海城(富津市)横堀

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写真: 造海城(富津市)横堀

写真: 造海城(富津市)最高所東端 喰違?

帰り道で気づけました。
7枚前、土橋渡り切る所から。8枚前の郭の北側。


下には降りず、砲台も諦めて引き上げます。時間が押してて……(´;ω;`)





造海城(富津市)
18.02.14.
つくろみじょう(県や市はつくろみ。個人方々のことごとくはつくろうみ。さて┐(-ε-)┌)
別称、百首城
築城年、寛正2(1461)年
築城主、真里谷信興
改修者、正木氏
城主、真里谷氏、里見氏(正木氏)
標高99m/比高99m
廃城年、天正18(1580)年
遺構、空堀、土塁、石垣

(→wiki)
寛正2年(1461年)、真里谷信興により築城された。
天文3年(1534年)、真里谷信隆と信応の間に家督争いが起こると、信隆の子信政が拠った。
天文6年(1537年)、信応に付いた里見義堯に攻められ開城し、里見氏方の正木氏が入った。
天正18年(1590年)、小田原征伐の後、里見氏が安房一国に減封され廃城となった。
江戸時代末期、城内の北端及び南西端二箇所に台場が設けられた。

浦賀水道に面した南北に伸びる独立性の高い丘陵上に占地し、西面を浦賀水道、北面を白虎川に守られた天然の要害である。
郭は尾根上に四郭を設け、西側に伸びる支尾根上及谷の上部に郭が重ねられている。東側の地形は西側に比べて起伏に乏しいが、三柱神社脇の尾根筋及び外部へと繋がる尾根筋に普請が認められる。後者は灯篭坂大師から伸びる大手道を、後者は延命寺・三柱神社にあったと考えられている居館をそれぞれ守る目的で設けられたものと考えられる。この他に、大手尾根の付け根付近に木出根と呼ばれる場所があり、腰郭が設けられている。
山上の遺構はほぼ完全に残っており、空堀や石垣、土塁、及び井戸が残る。ただし、後に台場が設けられたため、幕末期の遺構も混在する。(←)


超参考「余湖くんのHP」様→ http://otakeya.in.coocan.jp/info01/hyakushu.htm

巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=14zVB7XrB0PEC_mRyP1GxYJ_VHRU&usp=sharing

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