ヘルプ

淀古城/妙教寺(伏見区)本堂

写真: 淀古城/妙教寺(伏見区)本堂

写真: 淀古城(伏見区)天然水堀(南堀)

19.01.20.ツイート……
13ヶ月ぶり!? 8回目の明智光秀つぶやきです┌(_ _)┐
明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」の所感込みの概要です。読んだのずいぶんずいぶん前ですけども<(≧ε≦)テヘペロ 巡回先に光秀関連生じた際にやってます(σ・∀・)σ

ここいらから滅法「こうだろう・ああだろう」「こうに違いない・そうに違いない」といった文章ばかりになるので、氏の答えがどうしてそこに帰結したのかが分かる部分だけ、ちこっとずつテメエの言葉で記してます。


天正8(1580)年8月、筆頭家老 佐久間信盛・嫡男信栄、筆頭家老 林秀貞、西美濃三人衆がひとり安藤守就・嫡男定治、丹羽氏勝などが織田家を追放された。

これにより織田信長政権内での立場が最も変わったのが光秀。天正9(1581)年など軍事に携わっていない。佐久間信盛の軍事面に加えて、林秀貞の政治面も幾分か受け持たされたかもしれない。

洛中で行われた馬揃えの奉行も務めている。

天正9(1581)年、光秀は信長が巡察師ヴァリニャーノに語った唐入りの構想を知るところとなり、そしてそれが翌年1月確信に変わる。

信長は博多商人 島井宗室を茶会および茶道具の展覧に天王寺屋宗久を介して招いており、唐国渡海準備のため博多商人と調整に入った。

のちの秀吉の唐入りに於いてもやはり島井宗室を代表とする博多商人らが利用されている。

光秀は信長の茶会の3日前・1月25日に、島井宗室と天王寺屋宗久を茶席に招いており、信長の行動について情報を仕入れるか流すかしたのかもしれない。

またこの月、信長は四国侵攻を決定している。6月3日出陣予定。
信長が意向を変えるわけもなく。長曾我部元親も要求を受け入れず。光秀は元親の説得に尽力したはずだが、むしろ協力を求められていやしないか。「謀反」をと。

このあたりのことはその4参照<(≧ω・)

天正10(1582)年2月9日、甲信侵攻および三好山城守へ長宗我部征伐が命じられた。このあたりは前回参照。

信長の天下統一に向けた第二次構造改革が始められたと、唐入りまで一挙に突き進むと光秀は察したことだろう。

氏はここで謀反を決意したと記している。
それを示す記述が甲陽軍鑑にある。「二月に光秀が謀反を起こすので協力してもらいたいと申し入れてきたが武田勝頼は謀略であろうと思って拒否した」と。

もし勝頼がこの計画に乗っていたら、どんな歴史が綴られていたか……。
乗れていたら、の方が的を射ているかもしれない。寝返りがすでに横行してしまっていた頃合い……。

謀反実行の、成功への模索が始まった。

3月5日、光秀安土を出陣。
※甲州征伐から天正壬午の乱(甲斐一乱)、このあたりは自身本命の武田記事もあちこち見ていただけると……<(≧ω・)

3月23日、上野・信濃二郡が滝川一益に与えられる。侵攻に手柄があった者にその土地を恩賞として与えられる通例。家康に駿府、甲斐は河尻秀隆・穴山梅雪、信濃は森長可・木曽義昌。
甲信上に当主織田信忠の広大な領国が出来上がった。

3月28日、信長が家康領見物へ向かう。この目的が軍事視察であろうと推察することは、光秀にも家康にも可能だったはず。

近江・丹州を領国とする光秀が、三河・遠江・駿河を領する徳川家康と手を組めないかと思案するのは当然の帰結か。

近江・美濃・尾張・伊勢・伊賀の織田軍には、光秀自身と与力である細川藤孝12万石と筒井順慶18万石の軍勢で勝ると踏んでいたと思われる。

姻戚関係にもあった両者は、味方の中核として外せない存在で、細川藤孝については中間として仕えていた時代より苦楽を共にしてきた相手で、全幅の信頼を置いていたのではなかろうか。

家康領見物。光秀にとってもまたとない機会となった。しかし、ふたりの直接の接触がなかったことを示しているのが当代記の追記。「どこの宿泊でも光秀は老人なので信長の宿舎の近くに宿を仰せつけられた」光秀、家康の間に談合は行われていないという意図か。そも無いのか。

光秀が側に置かれたのは信長の寵愛ゆえだろう。

現代社会にも見られることだが、実務者協議のちトップの裁断、というケース。光秀自身は家康の家臣とさえ接触が難しかろうとも、家臣同士、自身の家臣、となれば調整は可能だったのではなかろうか。

失敗は許されない。敵対、反抗、謀反、無能……これらの一族郎党の末路を嫌という程見てきた。絶対に失敗できない。しかし信長、信忠を同時に討ち滅ぼす妙案はなかなか生まれなかっただろう。

お気に入り (1)

1人がお気に入りに入れています

コメント (3)

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。