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福井城(福井市)結城秀康公像

写真: 福井城(福井市)結城秀康公像

写真: 福井城(福井市)本丸石垣 写真: 福井城(福井市)本丸・結城秀康公像

mixiアルバム「江東区(東)/墨田区(南)」内コピペ――
mixiコメント 2013年05月29日 10:12
https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1673655820&owner_id=32815602

●松平伊予守――
・松平越前守――
越前家・越前本家・松平越前家・越前松平家(・結城家)、福井藩松平家、忠昌系松平家

1、秀康、従五位下・三河守・侍従、従四位下・左近衛権少将、参議、従三位、権中納言、正三位、贈正二位
関ヶ原戦後、家康より下総国結城藩10万1000石から、越前国北ノ庄67万石へ加増移封された。
関ヶ原の論功行賞において、一門を含む諸侯の中で、最高値の56万余石を超える加増を受けている。
2番目は本戦に参陣した異母弟の松平忠吉で、48万石増の尾張国清洲藩52万石で移封。
・下総国結城藩 →越前国北ノ庄藩

2、忠直、従四位下・侍従・三河守、右近衛権少将、従四位上・左近衛権少将、従三位・参議、左近衛権中将、越前守
※越前騒動。忠直と重臣たちの確執(家中騒動)で3度の武力蜂起など。藩内は混乱。大坂の役の後から乱行が目立つようになる(室 勝姫暗殺を企てるなど)。
元和9(1623)年2月、不行跡により強制隠居。配流、謹慎となった。


×、光長、従四位下・左近衛権少将・越後守、従三位・右近衛権中将、
父配流の時9歳。江戸城中にて養育されていた。
元和10(1624)年4月、江戸城に越前松平家支流諸家が集められ、そこで忠直次弟である越後国高田藩 忠昌を北ノ庄藩主とすることが申し渡された。忠昌は、兄や仙千代(光長)の行く末を思いやってこれを拒んだが、仙千代には別に配慮がなされるとの約束を取り付け、後継を引き受けた。
仙千代には忠昌の高田藩が改めて
与えられ(26万石)、北ノ庄藩士のことごとくがこれに従った。
慶安3(1650)年、父 忠直死去。配流先の豊後国で生まれた忠直の遺児、永見長頼、永見長良、勘姫を高田に引き取る。

延宝2(1674)年、嫡子 綱賢死去。綱賢に子がなく、光長には他に男子がなかったため、嗣子を急ぎ決めなければならなくなった。
重臣たちの評議の結果、甥の万徳丸(異母弟 永見長頼の子。松平綱国)が世継ぎと定まった。
この縁組の過程で、異母弟 永見長良(長頼の同母弟)や義弟で家老の小栗美作守など、重臣たちに争いが起こってしまった。
越後高田騒動――長期に渡り藩内を混乱させた。幕府により裁断が下され、落着となる。
延宝8(1680)年(裁決翌年)、4代家綱死去。5代綱吉は越後高田騒動に対し異例の再審議を行い、将軍直裁にて高田藩を改易とした。
光長は伊予国松山藩へ、綱国は備後国福山藩へ配流。藩士らも大量の処分者を出した。
騒動の処理を任されていた出雲国広瀬藩 松平近栄(3万石→1万5,000石)、播磨国姫路藩 松平直矩(15万石→豊後日田7万石)が連座処分となった。

貞享4(1687)年、綱国とともに赦免・召還。賄料として合力米3万俵を与えられ諸侯に復帰。
元禄6年(1693)年、養嗣子 綱国を廃嫡(出家した)。水戸光圀の周旋により、直基系越前松平家2代 直矩3男 矩栄を養嗣子に迎える。
直矩と光長より一字を受け長矩と改名(源之助 →矩栄 →長矩 →宣富)。
元禄10(1697)年5月、隠居。
元禄11(1698)年、松平長矩が美作国津山藩(10万石)を拝領。
※綱国の子孫は永見姓に復し、のち津山藩城代家老として代々存続した。


3、忠昌、従四位下・侍従・伊予守、正四位下・参議
北ノ庄(北ノ荘)を福居と改名。
※「浅草橋/松平忠昌 ・越前松平家/柳橋/」→
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4、光通(みつみち)、従四位下・侍従・越前守、左近衛権少将
忠昌次男。
藩政においては名君と呼ばれて差し支えない。学問、文化の推進、勤王奨励。
相次ぐ改革に加え、天災が立て続けに起きたせいで財政が逼迫。ここで幕府の許可を得て藩札を発行した。
寛文元(1661)年、日本初の藩札。
しかし、幕府から5万両を借用している。
室は光長娘 国姫。婚約は早かったが、越後高田藩の福井藩に対する干渉を危険視した幕府や、福井藩内からの防御的圧力があり、実際の婚姻は双方19歳とかなり遅かった。それも国姫の母 勝姫の姉、千姫の干渉あって。
当初ふたりの仲は良かったが、男児に恵まれず、継嗣問題が立ち上がる。光通は妾の子 直堅と考えていたが、勝姫に異議を唱えられ、男児誕生を待った。しかし――
※松平日向守・糸魚川藩松平家・松平糸魚川家・直堅系松平家――
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1937974966&owner_id=32815602

親族からの圧力、妻の死や息子の出奔など、家庭的・政治的に苦難が続く中、光通は遂に精神的に耐えられなくなったとされる。
延宝2(1674)年3月24日、庶弟 松平昌親に家督を譲るようにと遺書を残して自殺。享年39。

※光通を取り巻く混乱とその死去が、以後福井藩に減封・改易などの影響をもたらすことになる。
自殺により一旦収公されるが、即日昌親へ相続が認められる。

5、昌親(吉品よしのり。昌明)、従五位下・兵部少輔、従四位下・兵部大輔、侍従
寛永17(1640)年。忠昌5男。
遺書に対して問題が唱えられた。光通なりの思惑があったと思われるが、それは謎のままで、家中は「昌親」「直堅」「昌勝」の三派に分裂した。
庶子 直堅を擁する藩士50人ほどが結託、集団で江戸の直竪の元へ、また幕府への訴えに向かった。
光通には庶兄 昌勝もおり、前出した直堅を排する考えの下ならば、庶弟 昌親よりも昌勝がふさわしいと野心を見せる一派もあった。
これに対し、家老 芦田図書頭は、亡き光通の遺書を幕府に提出。昌親の家督相続の正当性を訴え、事態の収束を図った。幕府はこれを認め、第5代藩主には昌親が就任することとなった。
しかし、不満分子は存続し、藩政は落ち着くことがなかった。
延宝4(1676)年7月、家督を兄 昌勝の長男 綱昌に譲って隠居。相続からわずか2年のことだった。


6、綱昌、従四位下・侍従・越前守、左近衛権少将
吉品に家督を譲られたことで第6代藩主となった綱昌は、藩政に上手く対応できず、次第に発狂して家臣を殺すようになったとも伝わる。
貞享2(1685)年、江戸城登城の義務をも怠った。この間、吉品が代わりに参勤などを行っている。貞享3(1686)年3月、綱昌の不行跡を幕府は咎め、福井藩は改易・廃藩と決断された。しかし、福井藩は結城秀康以来の名門であるということから特別の配慮を受ける。
江戸城に呼び出された吉品と支流一門の前で、綱昌の強制隠居、前藩主 吉品が所領削減となる25万石で家督を再相続することが告げられた。

7、吉品(昌明)、左近衛権少将
のちに「貞享の大法」「貞享の半知」と呼ばれる。
藩領半減以外にも、様々な罰則が与えられる。領地宛行状などでの越前家の名称が、国名の「越前少将」から都市名の「福井侍従」とされた。大名行列に際し、忠昌が大坂の役で使った片鎌槍を掲示するのが通例であったが、禁止された。江戸城の詰間は御三家などと同じ大廊下だったが、外様の国持大名と同じ大広間に移された。
この時から「福井松平」と呼ばれるようになったとも言われる。

吉品は、2000人のリストラを行った。奥女中も。
さらに上方から下級に至る全藩士の知行を半減した。附家老 本多家も。
福居から福井に改めた。

8、吉邦、従四位下・大炊頭、侍従、左近衛権少将・伊予守
昌勝6男。
9、宗昌、従五位下・内匠頭、従四位下・中務大輔、侍従
昌勝3男。
分家の松岡藩より就任。廃藩となり都合30万石となる。
10、宗矩、従四位下・侍従・兵部大輔、左近衛権少将
陸奥国白河新田藩 松平知清次男(結城秀康5男 直基系越前松平家傍流。直基の孫。陸奥白河藩 松平直矩4男)。
名君と記録されている。

11、重昌、従四位上・左近衛権少将・越前守
一橋宗尹長男。
12、重富、従四位上・左近衛権少将・越前守、正四位下、左近衛権中将、左兵衛督
一橋宗尹3男。
13、治好、従四位上・侍従・伊予守、左近衛権少将、越前守、左近衛権中将、正四位下
重富嫡男。
14、斉承(なりつぐ)、従四位上・侍従・伊予守、左近衛権少将・越前守
治好3男。
15、斉善(なりさわ)、従四位上・左近衛権少将・越前守、正四位下、左近衛権中将
11代家斉22男。

16、慶永、従四位上・左近衛権少将、正四位下・越前守、左近衛権中将、大蔵大輔、正四位上・参議、従二位・権中納言、侍読、正二位、従一位
田安斉匡8男。
幕末四賢侯のひとり。
「明治」命名者。

17、茂昭(もちあき)、従五位下・日向守、従四位上・左近衛権少将・越前守、正四位下、伯爵、侯爵
松平糸魚川家 直春4男。


秀康系松平家は、ここが宗家(議論あり)。2代忠直の失脚で嫡流ではなくなってしまったが。
結城名跡は、前橋松平家(上野国前橋藩17万石)秀康5男 直基(この時は越前国勝山3万石)が継いだが、しばらくのちに松平に改姓してしまった。家紋だけは結城家のまま。
越前松平家は、御三家などの序列とは別格の制外の家とされていた。なお、この特例は秀忠に兄として遇された秀康1代限りのものとされるが(各藩の、徳川将軍家の兄の家系という意識は別として)、福井藩松平家・津山藩松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高い。


2012年06月15日 00:13記事加筆修正┌(_ _)┐
2013年01月13日 01:18記事加筆┌(_ _)┐

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