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写真:

写真: 13.06.17.調練橋北詰より南北(江東区牡丹)

越中島調練場跡。
陸軍練兵場跡。

水野土佐守下屋敷があった頃は、前方交差点が沿岸。向こうに屋敷。立ち位置は海。



mixiアルバム「深川(広域旧称。江東区南西部)」内コメント
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000042947265&owner_id=32815602

2013年06月17日 20:08
●越中島――
江戸時代初期、大川河口(隅田川)の中洲地帯に、旗本 榊原越中守照清(榊原康政の兄 清政の孫)の屋敷があったため、この中洲を「越中島」と俗称されたと考えられている。
榊原越中守サン家がのちに忍藩松平下総守サン家になり。
黒船来航後、海防のためその屋敷の東隣に設けられたのが越中島調練場。明治には陸軍練兵場。
そして明治32年11月、東京商船学校となった。現在はご覧の通りマンションw
(左手。北)


かつての江東沿岸は入江や干潟だった。そこが江戸のゴミ置き場として利用され、埋め立てられていき、やがて新田となり、農耕が行われた。埋立地はどんどん拡がっていき、さらには大名旗本の抱屋敷も立った。
昭和時代にはまだ聴いた、「夢の島」。この頃から…。


越中島。対岸? の日本橋中洲、日本橋箱崎町などは、江戸湊の景観素晴らしい別荘地だったそうだ。

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