ヘルプ

雲光院(江東区三好)

  • 2
  • 87

写真: 雲光院(江東区三好)

写真: 雲光院(江東区三好)弁財天 写真: 11.11.24.雲光院(江東区三好)

mixiアルバム「霊巌寺 ・松平定信 / 雲光院 ・阿茶局/ (江東区)」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043184331&owner_id=32815602

2011年11月27日 21:00

2011.11.24.
●道本山 東海院 霊巖寺ーー
・寛永元(1624)年、雄誉霊巌上人が、日本橋近くの芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に開山。
明暦3(1657)年、江戸の大半を炎に包んだ明暦の大火により、霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になった。
万治元(1658)年、幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転。
・11代将軍家斉時代、老中首座として寛政の改革を行った松平定信、
伊予今治藩松平家(定勝系久松松平家)墓地、
近江膳所藩(ぜぜはん)本多家(康俊系本多家宗家)墓地、
など大名の墓が多く存在する。
が、墓地は関係者以外立入禁止です。
・江戸六地蔵、第五番安置。
・幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ。
境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていた。
※古くは“霊巖寺”だったそうです。現在は簡単な“霊巌寺”と記しているそうです。(イワの字、お寺にうかがいました。)
※六地蔵については→「品川寺 空海/江戸六地蔵/」http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000003792306&owner_id=32815602

●松平定信↓フォトページ

※おまけ・松平定勝――
永禄3(1560)年〜寛永元(1624)年。遠江国掛川藩主。山城国伏見藩主。伊勢桑名藩初代藩主。徳川家康の異父弟。定勝系久松松平家宗家初代。
久松俊勝の四男。母は水野忠政の娘 於大の方。正室は奥平信昌の養女 たつ(二之丸殿、奥平貞友の娘)。
子は松平定吉(長男)、定行(次男)、定綱(三男)、定実(四男)、定房(五男)、定政(六男)、松尾(長女、服部正就正室)、阿姫(家康養女、山内忠義正室)、ほか。
同母兄に松平康元、松平勝俊(康俊)、異母兄に久松信俊(定員)。
末裔にアナウンサーの松平定知。
官位は従五位下、隠岐守、従四位下、左近衛権少将。


※おまけ・本多康俊――
永禄12(1569)年〜元和7(1621)年。徳川家臣。三河国西尾藩主、近江国膳所藩初代藩主。康俊系本多家宗家初代。
徳川四天王の筆頭 酒井忠次 次男。母は松平清康の娘(松平広忠の妹)。酒井家次の弟。徳川家康従弟。
正室は菅沼定盈の娘。子に本多俊次(長男)、忠相(次男)、俊昌(三男)、俊之(四男)、景次(五男)、娘(前田利孝正室)。
天正8(1580)年、本多忠次の養子となった。
天正18(1590)年、家康が関東移封のち、下総国に5000石の所領を与えられる。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにて戦功をあげ、三河西尾に所領(2万石)を与えられる。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣で近江膳所城を守備し、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参加して首級を105個も挙げた。その戦功により、近江膳所に加増移封(3万石)された。



●龍徳山 光厳教寺 雲光院――
浄土宗。本尊は阿弥陀如来(三尊)。
徳川家康の側室 阿茶局(あちゃのつぼね)の菩提寺として、慶長16(1611)年、自らの発願により、増上寺の高僧であった潮呑上人(ちょうどんしょうにん)が開山。阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名称になっています。
開山地は中央区馬喰町付近でしたが、明暦3(1657)年の大火後、神田岩井町に替地、天和2(1682)年、現在の深川の地に再び替地。
阿茶局の徳川家、江戸幕府への比類無き功績のため、家康公はじめ三代の将軍より、手厚い擁護を受け、朱印社領も賜り、一時は寺領内に塔頭寺院を十九ヵ寺(後に合併して十ヵ寺)、埼玉にも末寺を二ヵ寺擁した本坊寺院でした。堂内には、神君家康公肖像、阿茶局肖像など多くの宝物、什物が安置されていましたが、震災、戦災の被災によりご本尊のみならず過去帳、宝物など全て焼失。

●阿茶局↓フォトページ
※おまけ・松平忠吉↓

●庄司甚右衛門↓
※おまけ・後藤三右衛門↓

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (2)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    2011年11月27日 21:09
    墓地はとても狭かったので見つけられるかと思いましたが、叶わず。案内は阿茶局だけで┐(-_-Ξ-_-)┌


    ●庄司甚右衛門――
    新吉原創始者。
    江戸の町人。甚右衛門は通称で,初め甚内といった。もと小田原北条家の家臣で,主家没落後江戸に出て道三河岸で妓楼を営んだというが,出自には異説もある。元和3(1617)年吉原開設とともに惣名主となり,江戸町1丁目で妓楼西田屋を営み,「おやじ」と呼ばれた。子孫は代々名主職を継ぎ,同地で妓楼を経営した。
    吉原遊廓(よしわらゆうかく)は江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。

    2021年3月19日 13:46 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    ※おまけ・後藤三右衛門――
    後藤庄三郎家は慶長時代から徳川氏に仕え、金座や銀座を支配した商家。文化7(1810)年に取り潰され、分家の三右衛門方至がその地位を継いだ。文化13(1816)年、信濃国飯田の商人である林弥七の子、奥輔が方至の婿養子となり、三右衛門家を継ぐ。のち、文政・天保改鋳の際の金座御金改役に。
    文政小判、天保小判の改鋳や天保二朱金などの新鋳によって約1000万両益金をあげ、幕府財政に貢献した。天保改革期には、鳥居耀蔵、渋川六蔵(敬直)と共に“水野の三羽烏”といわれたが、幕府と金座の癒着ぶりも目に余るものがあり、水野忠邦失脚後の弘化2(1845)年10月、捕らえられ処刑された。同家は断絶。

    2021年3月19日 13:46 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。