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森下五丁目第2児童遊園(江東区森下)

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Photos: 森下五丁目第2児童遊園(江東区森下)

Photos: 新高橋北詰より西・北(江東区森下)北は菊川暗渠 Photos: 土屋求馬上屋敷跡(江東区森下)都立墨田工業高校

ある地図は藤堂和泉守下屋敷。
さる地図は岡部美濃守下屋敷。縄張同じ。
とある地図は酒井左衛門尉家ほか旗本3家。その4家が上記2家同様の縄張内に軒を並べている。





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2013年08月21日 21:27

●「藤堂和泉守」――
藤堂安濃津家・安濃津藩(津藩)藤堂家、藤堂家宗家

1、高虎、従五位下・佐渡守、和泉守、従四位下、侍従、左近衛権少将
藤堂虎高次男。虎高は初め武田信虎に仕えていた。虎は信虎の偏諱。
高虎公は語るに尽きず、またその歴史を記し著しきれない。
ぜひ大河ドラマに!!!

2、高次、従五位下・大学助、従四位下・侍従・大学頭、左近衛権少将
嫡男。高虎46歳にして初の男児。養子として迎えていた丹羽長秀3男 高吉は高次の家来となる。


※藤堂高吉――
藤堂名張家・伊勢国名張藩藤堂家・藤堂宮内家――
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦。東軍にて活躍、伊予に2万石を与えられた。
実子に恵まれなかった高虎は、養子として迎えていた高吉を後継者にしようと考えていたが、慶長6(1601)年に実子 高次が生まれたため、その話も消滅。伊予を離れ高虎の家臣となった。
高虎は高吉を疎んじ、参勤交代に同伴させなかったという。
慶長9(1604)年、加藤嘉明と些細ながら騒動を起こしたため蟄居処分を受ける。
慶長11(1606)年、許され、江戸城普請を務めた功績により、伊予国今治城主(高虎城代)に任じられた。1万石加増。
名張川の治水や城下町の発展に努め、地元では古今名君と慕われているとか。
慶長19(1614)年、大坂の役。徳川方として参戦、夏の陣では長宗我部盛親隊と戦闘(八尾の戦い)。

寛永7(1630)年、養父 高虎の死後、高次の家臣として仕える。高虎の葬儀に際しては、帰国を命じられ参列を許されなかった。
寛永9(1632)年、伊勢国2万石へ移封。
寛永13(1636)年、高次の命により伊賀国名張へ移封(※名張藤堂家興る)。
(※幕府が高吉を、藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったため、その事前工作(冷遇措置)だったといわれる。)
次男以下3名に5000石を分知、本家は1万5千石となった。
※高次は高吉の存在を危険視していたとされる。
享保年間まで、名張藤堂家と本家との確執は続いた。
名張藤堂家は代々宮内を称したため、藤堂宮内家とも呼ばれる。


3、高久、従四位下・和泉守、侍従、左近衛権少将
嫡男。
4、高睦(たかちか)、従四位下・大学頭、侍従、和泉守
高次5男。
5、高敏、従四位下・大学頭、和泉守・侍従
藤堂久居家初代 高通3男(高次次男)。

6、高治、従五位下・大膳亮、従四位下・大学頭、侍従
藤堂出雲家3代 高明4男(高英の子 ←高清の子 ←虎高3男)。
享保8(1723)年9月、久居家3代高陳隠居。久居藩藤堂家4代相続。
享保13(1728)年4月、宗家5代 高敏死去。末期養子。津藩藤堂家宗家6代相続。
久居家は甥の高豊(のちの高朗。藤堂出雲家4代 高武長男)が継承。
※両家で高虎の血筋が断絶。

7、高朗(たかほら。高豊)、従五位下・大膳亮、従四位下・和泉守、侍従、左近衛権少将、中務大輔
藤堂出雲家5代。
藤堂久居家5代。
藤堂宗家7代。

8、高悠(たかなが)、従四位下・大学頭、侍従、和泉守
3男。
9、高嶷(たかさと。高敦)、従五位下・佐渡守、大膳亮、従四位下・和泉守、侍従、左近衛権少将
高朗長男。
久居家7代。
宗家9代。

10、高兌(たかさわ)、従五位下・左近将監、従四位下・和泉守、贈 正三位
次男。
久居家12代。
宗家10代。
ちょい記事→http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=638249586&owner_id=32815602

11、高猷(たかゆき)、従四位下・和泉守、侍従、左近衛権少将、左近衛権中将、~、正二位
嫡男。


※藤堂宜虎(たかとら)――
弘化元(1844)年、江戸生まれ。
永倉新八の同志連名記、京都在留当時の風聞書によると、伊勢国津藩主 藤堂高猷の落胤、また伊勢国久居藩家老 藤堂八座の子という説がある。
通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りで、それを継承したものと伝えられる。それは、平助の佩刀(はいとう)“上総介兼重”が藤堂家お抱え刀工の作であること(“会津藩庁新撰組御一行刀改控”に記載)、一介の素浪人が持てる安価な刀ではないことから鑑みられ、
藤堂家血筋の生まれという可能性は低くないと考えられている。



●藤堂宮内――
藤堂名張家・伊勢国名張藩藤堂家・藤堂宮内家

1、高吉、従五位下・宮内少輔
良岑朝臣 児玉党丹 羽氏長秀流。
丹羽長秀3男。藤堂高虎養子。

2、長正
3、長守
4、長源(ながもと)

5、長熙(ながひろ)
藤堂長定の子。長源は従兄。婿養子となって相続。
独立を謀るが失敗(享保騒動)。
6、長美(ながよし)
7、長旧(ながひさ)
長熙の子。長美の弟。室は宗家9代 高嶷娘。

8、長教(ながのり)
9、長徳(ながのり)
母が宗家の血筋、また同じく分家の久居家に養子を出したことなどから、確執は解消された。
久居藩16代 藤堂高邦は次男。

10、高美(たかよし)
宗家10代 高兌の子。実は長徳長女 都留子。
11、高節(たかせつ)
藤堂采女家8代 元晋の子。
兄は采女家9代 元施。
藤堂采女元則に始まる采女家は家老職。
※はじめ保田元則。のちに服部家へ養子(半蔵家ではない。が、服部保長の曾孫にあたる)。のち増田家に仕え、関ヶ原のちに藤堂高虎に仕え、1500石を与えられた。家康命で? 藤堂姓となった。
高清(藤堂出雲家初代。高虎弟)が亡くなると、伊賀上野城代を任された。

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