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服部半蔵墓地。

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写真: 服部半蔵墓地。

写真: 旧文化放送通過w 写真: 大隈重信、講堂を眺望す。

西念寺墓参終了なう。こちら、槍は一般人も観ることができます。 http://twitter.com/emeth_Spriggan





mixiアルバム「西念寺/ 服部半蔵(正成)・松平(徳川)信康/」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000036240970&owner_id=32815602
2011年09月13日 17:15

2011.06.04.
●専称山 安養院 西念寺――
せんしょうざん あんよういん さいねんじ。
家康譜代、徳川十六神将がひとり、服部正成が開基しました。以後服部家の菩提寺となり、当寺院墓地には一族の墳墓が立ち並んでいます。

西念寺が在る新宿区若葉2丁目地域は、江戸時代、伊賀町と呼ばれ徳川家に仕えた伊賀衆の組屋敷がありました。
(「新宿区四谷/地名/御持組/ (11.06.04.)」内地図参照→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000046657569&owner_id=32815602

※新宿区四谷2丁目周辺――もともと原野だった土地。伊賀町は半蔵門から移ってきた伊賀者の居住地だったので四谷伊賀町といった。明治2年、現在の若葉方にも伊賀町があったので、北側の大繩地と福寿院をあわせて四谷北伊賀町とした。
※新宿区南元町――伊賀組組頭・服部仲の組屋敷だったことから四谷仲町と呼ばれた所。元禄地震起因の火災の後は、仲殿町と御駕籠町となった。迎賓館西、みなみもと町公園あたり。

同寺開基の服部正成はこの伊賀同心200人、与力30騎からなる伊賀衆の組頭でした。また、同寺から現在の新宿通りを皇居へ東上すると、彼の名にちなんで命名された“半蔵門”があります。(→別アルバム)
西念寺は家康が江戸入封してまもなく、文禄3(1594)年に正成が江戸麹町の清水谷(現在の紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まります。(→別アルバム)
正成は、かつて非業の死を遂げた松平信康(嫡男)の慰霊のために、出家入道して西念と号し、安養院に供養塔を建てて菩提を弔いつつ余生を過ごしていたのです。そして、慶長元(1596)年の死後、法名“専称院殿安譽西念大禅定門”と追号されて同庵に葬られました。
寛永11(1634)年頃、江戸城拡張工事が近辺におよび、現在地へ移転、寺院として新築されたとされます。山号、寺名は彼の法名に因んでいるのです。
お寺の説明版では、文禄2(1593)年に家康から寺院を建立するよう命を受けたが、これを果たす前に逝去したとされています。


●松平(徳川)信康↓

●服部正成はフォトコメントに。息子2人、伊賀同心についても↓





・アルバムコメント
2011年09月13日 21:52
●松平(徳川)信康――
永禄2(1559)年、松平元康(徳川家康)の嫡男として駿府に生まれる。幼名竹千代。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長、氏次との人質交換により岡崎城に移る。

永禄5(1562)年、徳川家康と織田信長の清洲同盟が成立。
永禄10(1567)年5月、信長の娘である徳姫と結婚。共に9歳、形式だけの夫婦とはいえ岡崎城で共棲する。
同年6月、家康は浜松城に移り、岡崎城を譲り受ける。
同7月、元服。信長より「信」の一字を与えられ、信康を名乗る。
天正3(1575)年、長篠の戦いにて17歳で初陣を飾る。その後の武田との戦でいくつもの軍功を挙げ、その勇猛果敢な闘いぶりが注目された。
天正5(1577)年8月、遠江横須賀戦の退却時に殿を務め、武田軍に大井川を越させなかった。岡崎衆を率いて家康を補佐した。


◎『三河物語』(信康の1歳下、大久保忠教による)――
・会話は戦のこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。
・(切腹についてもっとも詳しいとされる――)信長の娘である徳姫は、今川義元の姪である姑の築山殿と折り合いが悪く、信康とも不和になったとある。

天正7(1579)年、信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く重臣酒井忠次に託す。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通していると記されていたとされる。
信長は使者の忠次に質したが、忠次は信康を全く庇わず、すべて事実と認めた。その結果、信長は家康に信康の切腹を命じた。
徳川家中では信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣も在った。傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。
8月29日、築山殿を二俣城(守将は大久保忠世)へ護送中、佐鳴湖の畔で徳川家臣の岡本時仲、野中重政によって殺害。
9月15日、事件後、二俣城に幽閉していた信康に切腹を命じた。介錯は服部正成に命じられていたが、正成は“主命”なれど“主筋”に刃を向けることは出来ぬ、と別の者が介錯にあたった。
享年21(満20歳没)。法名は「騰雲院殿隆厳長越大居士」。

※信康を庇わなかった酒井忠次は、「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達にも憎まれたとされている。だがその後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者となっている。

※築山殿(つきやまどの)。天文11年?〜天正7(1579)年。松平元康の正室。本名は瀬名。別名を鶴姫。築山御前(つきやまごぜん)とも呼ばれる。今川家一門、瀬名家の関口親永の娘で、母は今川義元の妹である。また、室町幕府の重鎮、今川貞世の血を引いている。貞世の曾孫、貞延の嫡男が瀬名姓を名乗った一秀。
※今川貞世(いまがわさだよ)。鎌倉時代後期〜南北朝〜室町時代の武将、守護大名。室町幕府では室町幕府侍所頭人、山城守護、引付頭人、九州探題、遠江・駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねているw(゜o゜)w 歌人としても有名とか。高氏、義詮、義満に仕えている。

※松平宗家の居城岡崎城主を務めたため、祖父と同様に岡崎三郎(おかざきさぶろう)を名乗っていた。安祥松平家の七代当主。通称は次郎三郎。
信康は徳川姓を継ぐことなく死去したため徳川を名乗っていないとする説と、存命中は家康嫡男として“徳川信康”と名乗っていたとする説とがある。
幕府開闢後に、“幕府”が将軍家と御三家のみに「徳川」を名乗ることを許可した。その後に表記の再統一が行われたため、後世には誤って伝わった可能性が否定できない。
長女、登久姫(峯高院)は小笠原秀政に嫁ぐ。
次女、熊姫(妙光院)は本多忠政に嫁ぐ。



・アルバムコメント2
2011年09月13日 22:02
●松平信康2――

◎“徳川実紀”――
信康の評価は高い。
「東照公の公達あまたおはしましける中に、岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に」


●逸話・異説――(父子不仲説の有力化)
・家康は信康の死をいたく悲しんでいた。
・関ヶ原の戦いで秀忠が遅参した時、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日である。
・後年、酒井忠次は嫡男家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという。
・“幸若舞”(敦盛)を大久保忠世、酒井忠次と共に見た時、主の為に自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという。
・織田信長が信康を恐れたという確たる史実はひとつもない。
・冷遇されていた異母弟、秀康を不憫に思い、父家康との対面を果たさせるなど、情に厚い一面があった。
・信康の切腹には追い腹を出すほどの人望があった。
・関ヶ原の前夜に、信康の孫にあたる娘と小西行長嫡男、兵庫頭の婚約が家康から行長へ持ちかけられている。この孫娘は血縁では福島正則の養子、正之と結婚した満天姫(家康の養女。松平康元(家康の異父弟)の娘)とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。
・信康の家臣の内、主だった者には交代寄合に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。

◎“松平記”――
・気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。
・領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した(無礼打ちではない)。「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張している。
・鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けてくびり殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出合った僧に腹を立てた)。これに対しては後日、お詫びをしている。
・徳姫が産んだ子が二人とも女子だったことに腹を立てて仲が冷え切った。
・(築山殿)家康が今川を裏切り織田へ付いたために、父が詰め腹を切らされたことをひどく恨み憎んでいた。そして滅敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、武田氏に通じたという。

※これらは、結果として中傷される話であり信用できない。ただし“当代記”には、信康は家臣に対し無常、非道な行いがあったとされている。


※徳姫との不仲は“家忠日記”ほか徳川家を語る史料ことごとくから見られるため史実のようだ。
・不仲や不行状というだけで、あの信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である。

・徳川政権成立後に、事件の発端となった徳姫に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由が分かっていない(実際に所領を給与したのは義弟にあたる忠吉)。
・信長は信康の処断についてのみ触れており、築山殿については何も言っていない。
・家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていない。
・“信長公記”や“当代記”では、家康と信康の間に問題が起こり、それを家康の方から酒井忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということである。
・“大三川志”には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とあり、“当代記”にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親、臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。
・信康の異母弟にあたる松平忠輝は、その容貌などから父 家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のように発言している。「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(藩翰譜)。この発言から、信康の面影を見出したがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺えないか。





・フォトコメント
https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1316747845&owner_id=32815602
2011年09月14日 01:39
●服部正成――
天文11(1542)年、服部保長の四男として三河国に生まれる。
生家の服部家は、伊賀国の土豪で北部を領する千賀地 服部氏一門の長であったが、松平清康が三河国を平定し室町幕府の将軍に謁見するべく上洛した折、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。
正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。
“寛政重修諸家譜”によると、弘治3(1557)年、16歳のときに、三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立てたという。この際、家康から持槍を拝領したという。
(これが正成の初陣とされるが、当時家康は今川義元の人質として駿河に。さらに城主である鵜殿長持はこの頃今川に属していたため、正成が家康の命で宇土城を攻めるはずがなく、史実ではないと思われる。しかし、今治藩家老 服部正弘が編纂した“今治拾遺”の中“服部速水正宣家譜”に、年号や年齢についての記述はないが、正成が三河宇土城を夜襲し、その武功を立て家康から紋付、杯、槍を褒美として贈られたとあるため、宇土城で戦功を挙げたのは史実と思われる。)
元亀6(1572)年、三方ヶ原の戦いで徳川軍は大敗したが、正成は武功を立てたため、家康から褒美として槍を贈られ、伊賀衆150人を預けられる。
天正7(1579)年、信康が自刃に追いやられた時、検使につかわされ介錯を命ぜられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って介錯をすることが出来なかったとされている。
天正10(1582)年、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こる。
このとき堺に滞在していた家康が、甲賀、伊賀を通って伊勢から三河へ船で抜ける“神君伊賀越え”に際し、先祖の出自が伊賀である正成は、商人 茶屋四郎次郎清延とともに甲賀、伊賀の地元の土豪と交渉、彼らに警護させ、一行を安全に三河の岡崎まで護衛した。
のち、彼らは伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。
小牧・長久手の戦いでは伊勢松島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している。
天正18(1590)年、小田原の役に従軍。その功により遠江に8,000石を知行された。
家康の関東移封後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父が伊賀出身であった縁から、徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になった。隠密役となった。
慶長元(1596)年に没し、江戸麹町清水谷の安養院に葬られる。
伊賀同心支配の役は嫡男の正就が継いでいる。“服部半蔵”名義を継ぐ。


半蔵門は、半蔵の屋敷が門前にあったことから名づけられた。“伊賀越え”の功という前提もあるようだ。
半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いており、服部家の家臣の屋敷は甲州街道沿いにある。江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めており、享保3(1718)年に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。
甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道で、将軍家に非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路になっていた。


初代服部半蔵(半三という文書もある)、服部保長の史料に確かなものは存在しない。
よって足利義晴に仕官したこと、松平清康へ仕官したこと、伊賀千賀地の前後のことなど、いずれも仔細不明で語れるものではない。


・フォトコメント
https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1316747841&owner_id=32815602
2011年09月14日 01:57
●改易――
※武士としての籍を除き、領地・屋敷を没収すること……。

◎服部正就(まさなり)――
半蔵の死後、所領は嫡男 正就に5,000石、次男 正重に3,000石と分割される。これが正就はおもしろくない。
横柄で傲慢、父に似ず凡庸な器、部下の扱いも悪く、正就の評判はすこぶるひどかった。指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのように扱った。上役と部下の関係であって、主人と家来の関係ではないことを認識できない。暴虐非道、と言われた。
1605年、家康は正就の部下の一部を大坂城の密偵として派遣する。正就は留守中の部下の妻を強姦。辱めを受けた妻は自殺し、夫への操を立てた。
この事件によって、伊賀組同心たちの不満は一挙に爆発。同年12月(11月?)、四谷長善寺(笹寺)に刀、槍、弓、鉄砲まで備えて立て篭もり、正就の解任と与力への昇格を要求する騒ぎに至った。
このため、正就は役を解かれる。
(正就は自らの不徳を悟り、自分から解役を願い出た。処分を思案していた家康はその願いを受けて服部家を改易したという、説もある。)

正就は解任を逆恨み、伊賀同心の首謀者10名に死罪を要望する。そのうち、逃亡した2名中1名を探し出して切り捨てたが、別人である事が分かり、完全に職を失うこととなった。
正就は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。
その後、名誉挽回を狙い、松平忠輝の軍に属して大坂の役に参加するも、行方不明に。死没説は強い。


◎服部正重(まさしげ)――
関ヶ原の戦いで初陣。戦いの前日夜に徳川家康の陣で酒盛りしながら、父親の初陣話や活躍を聞く。翌日、合戦(法螺貝の合図)の前に敵陣に一人で入り、寝込を襲い敵の侍大将の首を取り、家康に届けた。
家康になぜ敵の首を取れたか聞かれ、正直に話したところ家康の逆鱗に触れる。父親はそのような卑怯者では無かったと言われ、恩賞は無しとされた。
1614年、大坂の役で行方不明となった兄 正就(3代目半蔵)に代わり、服部家の家督と服部半蔵を襲名する。
正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山政策を担当していた(同心)。
1612年、大久保長安事件ではお咎めなしであったが、目付より佐渡で待てと言われたものの、佐渡で待たずに佐渡島の対岸の出雲崎で目付一向を出迎えたため、家康の逆鱗に触れ、3千石を没収され浪人へ落ちた。
その後、越後国の3藩に家来として仕えるが、どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、5年後、兄嫁の実家久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなった。
正重は1652年、73歳で没す。
正就の妻は桑名藩主松平定綱の姉である事から、その子 服部正辰も桑名藩に仕えている。血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されている(小服部家)。


◎その後の伊賀同心――
同心たちは改易されることなく、あちらこちらにバラバラに配属された。
もっとも多かったのは鉄炮百人同心伊賀組で、ここには100人ほどの伊賀同心が配属。小普請組同心(名目だけの――。組、番には人数が決められていて、その手余りの人数はみな。雑用係。江戸城の屋根瓦が壊れたとか、石垣が緩んだとか、取るにたらぬ修理を引き受ける)にされた伊賀同心もいる。
この鉄炮百人同心伊賀組を預かったのは(時の老中)内藤清成。老中の職務。

改易後、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという説もある。が、少なくとも吉宗の時代には双方とも忍者としても間諜としても使いものにならなくなっていたのは事実(?)。


どうも日本史のにわかファンには(ごめんなさい<(_ _)>)伊賀忍=服部リーダー、のようなイメージがあるが、それは忘れた方がよい。
また伊賀同心=伊賀忍者(伊賀豪族)でもない。家康の伊賀越えに協力した者たちだけが恩情により召し抱えられたのであって(300名とか)、土地に残った者も多い。時の領主さえ従わなかった。

信長の伊賀潰し。滝川一益は甲賀者。語り尽くせない。
影に生きる集団。闇の集団。発祥も存在の立ち消えも不明…。それが表に出たのは戦国…。京に近いこと、呪術まがい、山伏、などの縁から鑑みると――


※桑名藩、聞いてピンと来る人も多かろう。幕末に“服部半蔵”は登場している――!!

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